扉を開けると、其処は戦場だった。
点々と続く、血と屍―――ではなく、脱ぎ散らかした衣類。
噎せるようなアルコール臭。
雷堂は、こめかみに血管を浮き上がらせると、足音高くとある部屋を目指す。
「いるか。ろくでなし」
果たして、開けっ放しの扉の向こうには、探偵社の所長、鳴海がいた。
ベッドに寝そべり、寝間着に着替えもせずに。
ふああと、雷堂の怒りとは真逆の呑気な欠伸をして、にへら、と笑った。
「ろくでなしは、いませぇん」
「酒臭い息を出すな。超力ろくでなし」
「超力?」
「黙れ。貴様が息をする度に、全人類が迷惑する。喋るな。今すぐ窓を開けろ」
「葛葉の人間って、どうしてそうオーバーに物事を考えるわけ?」
刀に手を掛けようとした雷堂を見て、漸く鳴海は換気をする。
ただし、素足で。
「汚いだろうが!」
「五月蠅い奴だな。姑か?」
「・・・・・・次にそんなことをしてみろ。貴様の自慢のスーツで、窓を拭いてやるからな」
靴音高く踵を返した雷堂は、鳴海の自室を後にした。
「本当に、だらしのない男だ」
玄関に戻り、雷堂は溜息を吐いた。
屈んで、先ずはひっくり返った靴を拾う。
左足。右足。
左足の靴下。右足の靴下。
ちょっと左に歩を進めて、帽子。
右に戻って、次は上着。
左、右、左、右と拾っていき、終点の寝室辿り着くと、一抱えもある装備を、主に向かって投げつけた。
「自分で整頓しろ」
「・・・・・・ちょっと待てよ」
「我は、家事をする繰り人形ではない。自分のことは、自分でして貰おう」
「そうじゃなくてな。ほら」
鳴海は上着のポケットを探り、雷堂に向かって投げた。
可愛らしい紋様の入った小箱。
開けると、キャラメルが入っていた。
「どういう風の吹き回しだ」
「見世で貰ったんだ」
嘘だ。
鳴海からも、この箱からも遊郭独特の白粉や香の匂いがしない。
「いらないなら捨てろよ」
「・・・・・・いや、貰おう」
寝返りを打って、顔を隠した男に、雷堂はそう云った。
鳴海が、何故、雷堂に菓子を買って帰ったのかはわからない。
何か企んでいるのかもしれないし、ただの気まぐれかもしれない。
だが、いつもとは違う不器用な男の様子に、我知らず笑みが浮かんで。
雷堂は、取り敢えず、包み紙を剥がすことにした。
いつまで、この穏やかな時間が続くかわからないから。
多分、一瞬のことだろう。
口論が絶えない二人だから。
嗚呼、本当に、手の掛かる男だ。
キャラメルを口に含み、雷堂は、ベッドの端に腰掛けた。
「美味いぞ」
口中で転がしていると、漸く鳴海が振り返った。
「じゃ、代金払え」
「・・・・・・返す」
「口移しでな」
雷堂は、枕を引っこ抜いた。
自然、鳴海は頭を打ち付け、舌を噛んだ。
「この糞餓鬼! 事務所から追い出すぞ!」
「貴様の方が先だ」
「何だと!」
睨み合い、視線を外したのは、以外にも雷堂だった。
「貴様のような半端な存在は、不快なのだ」
「あん?」
「薬にも毒にもなる可能性を持っている癖に、薬にも毒にもならず腐っていく輩はな」
「・・・・・・云うじゃない、雷堂ちゃん」
にぃっと厭な笑みを鳴海が浮かべた・・・・・・そう思った瞬間、腹部に衝撃がきた。
咄嗟に呼気を出すと、壁に叩きつけられた上体にまた一発。
顎を突き上げられ、雷堂は、床に座り込んだ。
「お前、何様のつもりよ?」
吐き気をぐっと堪えれば、穏やかな声がかかった。
見れば、少しも笑っていない双眸と、煮えたぎる油にか弱い蓋をしたような激情にかちあって。
初めて、この男に、ぞくっとした。
「半端な俺が厭だと? でもな。お前は、俺の部下で下っ端なんだよ。ヤタガラスに飼われている犬さ。上の存在には、絶対服従。逆らえないんだよ」
「貴様は、」
反論しようとして、
「半端が厭なら、無視すればいい。適当に、俺に構っていればいいだろうが」
雷堂は鳴海の昏い瞳に貫かれた。
「何で、俺に構う?」
ぐいっと襟元を引き寄せられた。
ベッドから滅多に離れない鳴海が、床に降り立ち、雷堂を締め上げる。
蹴ろうとした瞬間、改めてこの男の方が、我より少し身長が高いことに気づいた。
事務所にいる時は、殆ど椅子と同化しているから、忘れていたことだった。
どうして今、くだらないことに気づくのだ。
他にも鳴海に対して、空回りしている感情があるということか?
くっと喉を鳴らして、雷堂は唇を開いた。
「貴様は、曲がりなりにも我の上司だ」
「だから?」
「我は、帝都を守護する最強の葛葉雷堂にならなければならぬ。その隣には、同じく最高の業斗童子が。ならば、貴様も足並みを揃えてもらわぬと困るのだ」
「はっ! お前の理想に付き合えってか!」
「・・・・・・そうだ」
「矢張り、お前は餓鬼だよ」
理想論ばかり押しつけて、つまらない餓鬼だ、と鳴海は吐き捨てた。
「どれだけお前は、お綺麗な存在なんだよ」
「・・・・・・」
「葛葉雷堂? どれだけご立派なもんなんだよ」
「誇りであり、希望だ」
「はっ! 帝都のか!」
「帝都民も、だ」
「貴様もだ鳴海」
「あぁ?」
「帝都民であろう」
「・・・・・・」
「だが、ヤタガラスの傘下にもいる」
「・・・・・・」
「守護する側に回るか、守護される側に回るかは、貴様次第だ」
「ここまで云っておいて、突き放すのか」
「・・・・・・我も、よくわからぬのだ」
鳴海の動揺を見逃さず、雷堂は云った。
「貴様に期待しているのか、否か」
だらしのない男。仕事もろくにせず、ふらふらと亡霊のように帝都をふらつくこの男。
あまりの自堕落ぶりに、何故、ヤタガラスはこのような者を上司にしたのかと苛立った。
しかし、不意に見せる鋭い眼光、最新にして正確な情報を助言する唇、熟練した銃の腕、その手さばきは、先の不健全さを掻き消す程の精彩を放つ。
零でも百でもない。
持たざる「零」で安寧することもなく、完璧な「百」で安定することもない。
帝都を守護する為の力が零パーセントでもなければ、百パーセント協力的でもない。
雷堂とて、万人に百を求めるわけではない。
悪魔で、帝都の守護者の気概や、可能性について「百」を唱えるのだ。
高みへ。雷堂の名に恥じぬ、雷堂となって、更に上を目指して、遙かなる高みへ。
そして、最高の葛葉雷堂として、存在したいのだ。
その為には、自分一人の力では足りぬことも知っている。
雷堂という誇り高き名、業斗、仲魔、そしてできるならば・・・・・・。
我にとって、この男の何と不安定なことか。
斬り捨てることも、強引に引き寄せることもできない。
直面する度に腹立たしく、それでいて目の離せない・・・・・・。
何なのだこの感情は。
「貴様。我に何かしたであろう」
「は?」
「百のみを目指していた我が、迷う等と・・・・・・」
このままでは、我も、百にはなれない。
「術でもかけたか?」
雷堂は、鳴海に睨みを利かせる。
「最近、夢の中で、にやつきながら我を抱擁してくるのは、貴様の不徳によるものだろう」
真剣に問いただす雷堂を、鳴海はぽかんと見た。
「貴様を見ていると異様に胸がざわめくのだ。・・・・・・何故笑う?」
「お前さ。それを直す方法を教えてやろうか」
「貴様が、真面目になればいいのではないか?」
「違う違う」
笑いをどうにか引っ込めたらしい鳴海は、雷堂から手を離し、ベッドに座った。
ゆったりと足を組んで、にやりと笑む。
「雷堂。これから、お前に探偵としての仕事を与える」
「は?」
「ある人物の行動を観察し、自分がどんな感情を持ったか、逐一報告しろ」
「それと、我の気持ちや夢と、どう関係があるのだ」
「・・・・・・お前、最高の雷堂になりたいんだろ? 頭を働かせろよ」
「む」
「気になったんだけどな。お前、百になりたいの? ってか、百って何だ?」
「百パーセントの百だ」
鳴海は、大げさに首を振ってみせた。
「つまらないな」
「・・・・・・っ」
「お前は、『百』を区切りにして、結局、自分の限界を作ってるよ」
「・・・・・・」
「なぁ。百パーセント以上の雷堂になる方法を知りたくないか?」
「無論。あるのならば!」
「それが、さっきの話と繋がるんだよ」
「俺の行動を調査しろ」
「俺がこの先、帝都にとって薬になるか毒になるかな」
どちらにもなるつもりがないような、若しくはどちらにもなりうるような、曖昧な言葉。
「で、どんな気持ちになったか報告書にまとめるように」
「・・・・・・矢張り、よくわからないのだが」
「未知のことも経験したまえ、雷堂君。お前は色気はあるが、恋愛沙汰に淡泊過ぎる!」
「意味がわからん! それに、帝都守護の話と関係ないだろう!」
「お前、百パーセントを超えたくないのか!?」
「それは・・・・・・!」
「だったら、駄々を捏ねるな! やる前から諦めるな!」
「・・・・・・う、む」
よしよしと頷いた上司に、ふと雷堂は、この鳴海という男は、護り護られながら、我等の力になるのではないかと思った。
二つの立場から、他の誰もが出来ない帝都守護を・・・・・・。
しかし、いつものだらけきった笑みが目前の顔に浮かんだ所で、矢張り無理かもしれないと雷堂は嘆息した。
「よし! では、早速始めるぞ!」
「・・・・・・承知」
雷堂は、鳴海を見つめる。
一挙一動を見逃すまいと。
鳴海は、応えるように流し目を送る。
のけぞった書生に、男は近づき。
そして、唇が重なった。
次いで、何かが砕けるような音が部屋に響き、記念すべき報告書の一ページ目は、「所長負傷」の文字が躍ったのであった。
2007.1.17
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