窓の外で、さぁさぁと小雨が降っている。
天地を繋ぐ数千の糸のような情景に、軽く溜息一つ。
鳴海は窓を閉め、ライドウは読書を再会する。
ゴウトは、過剰な湿気に、朝からふて寝を決め込んでいる。
時折ぴくりと動く耳は、熟睡できないことを示しているのだが、頑なに眼を閉じ、戸棚の上で身を縮こまらせているのは、悪戯な白い手からの防護であった。
ぱらり、とペェジを捲る音。
そっ、とマッチの重なる音。
すぅすぅ、と聞こえる寝る音。
三者の音に、小雨が寄り添うように四つ目の音を奏でていた。
うつらうつらとしながら、ゴウトは胸中、呟く。
悪くない。
反響しながら、消えていく想いに、何となくまた耳を動かす。
この和音が続くなら、雨の日も、悪くない。
「凄い・・・・・・」
不意に発せられた上擦った声に、ゴウトは耳を欹てる。
甘やかなその感嘆は、書生から漏れ出たようだった。
恐らく、読み進めている本に感銘を受けたのだろうが。
「どうしたの? ライドウ」
すかさず、鳴海が相槌を打った。
視線は、マッチに向けられたままだったが、器用にもライドウとも眼を合わせられる位置に所長椅子がある。
時々、計算高い奴だよな、とゴウトは薄く眼を開ける。
ライドウが、顔を上げた。
「此所に、素晴らしい記述がありました」
「どんな?」
「『眼には眼を、歯には歯を、骨には骨を』」
「え?」
「溶けるほど見つめ合い、歯がぶつかり合うほどの口吻をし、骨の髄までしゃぶりつくすとは、究極の愛ですね!」
「いや、それは復讐法と言ってな」
思わず突っ込みを入れてしまい、ゴウトは、しまったと思った。
今日は、此奴等を無視して寝続ける予定だったのに。
厭な予感がする。
「ゴウトにゃ~ん。激しさは、そうそう変わらないんじゃない?」
「そうなのですか、ゴウト」
「ゴウトにゃんは、激しくないの?」
「ゴウトは・・・・・・」
「五月蠅いぞ、お前等!」
毛を逆立てて、ゴウトは、かっと眼を見開いた。
糞っ! 完全に眠気が覚めた!
こうなったら、とことん今日は仕返しをしてやるぞ!
安眠妨害の恨みは、深い!
「ライドウ。これから、俺が ”激しい” 愛を実地で教えてやろう。いいか。”激しく” だぞ! これから俺が云うことを、お前はしろ」
「はい!」
きらきらと眼を光らせ、頬を紅潮させたライドウに、鳴海は意味ありげな笑みを浮かべ、ゴウトは、ふん、と鼻息を荒くした。
「先ず、眼を閉じろ」
「はい!」
正座して、膝の上に拳を置いて、ライドウは次の言葉を待つ。
「俺がいいと云うまで、決して動くな。決してだ」
「はい」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・ゴウト」
「動くなと云った筈だ。唇を動かすな」
「はぃ」
「はい、もいらん」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「鳴海、出かけるぞ」
「俺?」
「嗚呼。逃避行だ」
「何の?」
ふっ、とゴウトは、悩ましげな視線を寄越す。
「愛の、に決まっているだろう?」
「うわっ。ゴウトにゃん、キャラ変わってるよ!」
「俺は、本気だ。勝負には勝ちに行くタイプだ」
ライドウが困り、日頃の行いを謝ってきたら、俺の勝ちだ。
勿論、恋愛についても・・・・・・まぁそれは、後でもいいだろう。
「目的と手段が入れ替わってると思うけど・・・・・・」
「行くぞ」
鳴海は、コートを着込み、ゴウトへ笑いかけた。
「ゴウトにゃん、いや、ゴウトさんのエスコートかぁ。お手柔らかにね」
ひらりと降りて、ゴウトは一緒に扉へ向かう。
「とっておきの場所に連れてってやる」
ぴくり、とライドウの身体が動く。
鳴海は、その様に口角を上げつつ、話に乗る。
「へぇ? どんな?」
「それは、着いてから、な」
「ゴウトさん、意味ありげね。俺、ドキドキしてきちゃった」
「おい。抱き上げるな」
「濡れるよりいいだろ?」
「ん。まぁ」
「エスコートというより、エロコートになってるかな?」
「お前・・・・・・ま、たまにはいいだろう」
「もぞもぞ動いて・・・・・・やっぱりゴウトって、えろいな」
鳴海から視線を外し、ゴウトは一度だけライドウを振り返る。
目を瞑っていても、ライドウには分かったはずだ。
ゴウトの視線が。
一時見つめて、情を振り払うように、ゴウトは目前の男に視線を戻す。
「そろそろ行こうぜ。鳴海先生?」
「待ったぁああああああぁあぁあ!」
扉を開けた所で、刀の一撃が二人を襲う。
難なくそれを避けつつ、ゴウトを抱えなおした鳴海は、ニヤリと笑う。
「あれぇ? 追っ手がもう来たようだよ、ゴウトさん」
「どうしようかな。早く逃げないと、二人は一緒になれないぞ」
二合目を更に躱した鳴海は、引っ掴んだ傘を、サーベルの要領で構える。
ゴウトはその様に感嘆し、怒りで構えの定まらない書生に眉を顰めた。
「ライドウ。俺は、まだ『眼を開けろ』とも『刀を抜け』とも云っていないが?」
「許しません! 僕を置いて二人で逃げるなんて!」
「聞いてないみたいだよ? ゴウトさん」
ぎらりとライドウの眼が光る。
「ゴウトさん、ですって!? ゴウトも所長も、愛などと云いながら僕を騙していたのですね!」
雲行きがおかしいな、とゴウトは訝しむ。
自分の考えでは、二人の「芝居」に耐えきれなくなったライドウを、諫め、陳謝させ、これからは目付たる自分に軽々しく触れたり、舐めたり、猫じゃらしで弄んだりしないように言い含めるつもりだったのだが・・・・・・。
「二人は、そういうご関係だったのですか!」
「いや、違うぞ」
ライドウ。まさかお前。
「またそうやって僕を騙すのですね! 貴方達は!」
今までの芝居を、本気だと思っている・・・・・・?
やばい!
慌てて種明かしをしようとしたゴウトの唇に、鳴海は人差し指を当てた。
「ゴウト」
「な、ん・・・・・・っ!?」
不意の暗闇に、ゴウトは言葉を失った。
そして、鳴海の温度が、瞼から離れていく。
硬直するゴウトとライドウには、次へ次へと動く鳴海の動きを、ただ眼で追うことしかできなかった。
黒い毛並みに隠された唇を、そっと持ち上げ、犬歯をゆるりと撫でる。
神経が通っている訳ではないのに、ゴウトはその刺激だけで、ぶるりと震えた。
額、顎、前肢、背骨、後ろ肢、尻尾と、骨を押し込むように、或いは骨の髄を痺れさせるように手で触れていった。
一連の動作の後、恭しく前肢を持ち上げ、接吻けし、微笑んだ。
「俺達は、こういう仲なんだよね?」
「・・・・・・・・・・・・いや、違うだろ」
「もう隠すのは止そうぜ、ゴウト」
うっとりと囁き、鳴海は漸く気づいたと云わんばかりにライドウを振り返り、苦笑してみせる。
「そういうわけだから」
「違う、違うぞ! ライドウ、違うからな! 此奴とは、何でもないからな!」
不気味に沈黙しつづける書生に、ゴウトは言い訳を繰り返す。
顔を埋めてくる鳴海をげしげしと蹴りつつ、予感に冷や汗を掻いた。
「・・・・・・ライドウ?」
「ゴウト」
「な、なんだ」
「所長」
「なぁに?」
ごくり、と自分が生唾を呑む音を聞いた。
そして、ライドウは、微笑み―――。
「二人を殺して僕も死ぬぅ!」
「ぎゃー!!!」
最後の理性を手放したライドウに向かって、鳴海は、ぽいとゴウトを差し出し、窓枠に足をかける。
「じゃあな、ゴウト! 後は頑張れ!」
すんでの所で、猛攻から逃げたゴウトは、
「きさまああぁああぁ! 責任は、最後までとらんか!」
殺気を剥きだし、裏切り者を罵る。
「そうだ! 眼から涙が出るような! 歯を食いしばるような! 骨まで痛むような、僕の愛と涙の鉄拳を受けるがいい!」
口調まで変わったライドウを前に、鳴海は不敵にも首を振った。
「俺は気まぐれな恋に生きるよ。愛は、当分、いらないなぁ」
「裏切る気かぁ!」
「単なる駆け引きだよ。ととっ、じゃあね!」
ライドウの凶刃が向けられた瞬間、鳴海は身を躍らせる。
完璧なる逃走であった。
「ちっ。あの野郎」
ライドウ、お前そんなキャラだったか?
窓へ注意を向けた書生に、ゴウトも逃げようとするが
「ゴウト」
「は、はい?」
ゆっくりと上段の位置に止められた刀に、足が止まってしまった。
「ライドウ、さん?」
「先ずはお前から激しく散れぇえええぇえええ!」
「厭だぁあああああ!」
斯くして。
ゴウトとライドウの激しい愛憎劇は、翌朝まで続いた。
散らずに済んだ黒猫は、今までより更に濃厚な愛情表現を受け、自分も、それを要求されたのだった。
鳴海は、あの雨の日から三度の朝日を拝んだ今日に到っても、まだ事務所に帰っていない。
帰ったところで、穏やかな和音を奏でていたあの日の朝は、二度と再現されないことを、三人とも分かっていた。
不協和音を奏でだした、三者の恋愛事情は、延長戦に持ち込まれるようで。
次の雨は、外で凌ごう。
少年に抱かれながら、ゴウトは涙したのだった。
2006.11.28
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