「地図あげる」
白い紙が机上を滑って、雷堂の指先に触れた。
「ちょっと其処までお使い行ってきて」
それだけ云って、興味をなくしたと云わんばかりに、鳴海は、マッチを取り出した。
先ほど雷堂がこぼした水を吸った其れは、前作の寺を囲むように置かれていく。
庭、なのだろうか。
雷堂は推測しながら、地図に視線を落とした。
「あの、所長・・・・・・」
「何」
「北は、どちらですか」
「・・・・・・はぁ? こっちだよこっち」
「・・・・・・こっち、ですか?」
瞬間、マッチ寺が崩れた。
「かーっ! 違うよ! この方向音痴!」
新聞紙を丸めて、書生の頭をばしばし叩く。
「行くぞ!」
「あ・・・・・・っ」
さっさと歩き出した鳴海に、慌てて雷堂は着いていった。
事務所を出て、右奥に行くと裏道。
曲がらずに進むと、話し好きの女性、親子、やがて金王屋。
金の蛙に見とれていると、腕をつかまれた。
「すみません・・・・・・」
容赦のない力。
「あの、もう余所見しませんから・・・・・・」
「五月蠅い」
漸く、男は振り向く。
「お前の意見は、聞いてない」
向けられた冷たい背中と、離れた指の熱さに、躰のどこかが軋んだような気がした。
珈琲二つ。
迅速に片付けられた用事のように、雷堂のあずかり知らぬところで、注文が決まった。
「お前、見てもわかんないだろ?」
一度も目を通せなかった品書きが、ちょっと名残惜しかったが、図星なので、とりあえず店内を見回す。
親しげな男女の他は、ほとんどが女性客。
男二人連れは、所長と雷堂だけだ。
鳴海がゆったりと腰掛けているので、雷堂の緊張も多少はほぐれた。
何しろ、里にはこのような場所はなかったし、たとえ存在したとしても、雷堂が足を運ぶことはなかっただろう。
オルトロスの鬣よりも柔らかい雰囲気と、モー・ショボーのように軽やかな動きをする少女達に、靴の中でこっそり小指を動かした。
「ごゆっくり」
頬を染めた給仕の女性が去っていく。
華奢なカップが二つ。
そして雷堂の前にのみ、可愛らしい洋菓子。
触れれば壊れそうな其の造形に戸惑い、雷堂は緊張を解す為に先にカップに口を付けた。
一口含んで、二度は飲むまいと決心した。
「お前、里で住んでた時、どうやって生きてたわけ?」
「・・・・・・勘です」
平気で苦い茶色の温水を飲む所長に、ちょっと尊敬しながら、雷堂は居住まいを正した。
「所長には見えないかもしれませんが、我等には常人には見えない悪魔と呼ばれる存在を感知することができます。
それらが好む場所、時刻を熟知していれば、方角など、容易くわかります」
「・・・・・・悪魔?」
「はい」
「・・・・・・帝都は、悪魔が少ないわけ?」
「いえ。そういうわけでもないですが」
言葉を濁すのは、あまりに専門的なことを云ってもわからないだろうと思うからだ。
幼い頃、解り合えなかった隣人達との記憶が蘇る。
「・・・・・・所長は、召し上がらないのですか」
「腹減ってないから」
我も、あまり減っていないのだが。
「ま。何事も経験よ」
「・・・・・・」
「まさか。『あーん』とか、して欲しいんじゃないだろうな」
「『あーん』?」
「食え」
「は、はい」
口の中から、笑みが広がっていった。
「雷堂。俺もやっぱり食う」
丁度、フォークを刺したところだったので。
「どうぞ」
「俺の方に、其れ向けて」
「こうですか?」
先端の苺が、鳴海の口に吸い込まれていった。
ねぶるように食べ、瑞々しい雫で、てらてらと光る舌が最後の欠片まで掬い、舐める。
何故か怪しくざわめく胸に、雷堂は戸惑った。
硬直していると、所長が今日、初めて笑った。
「もう一回」
口を、あーんと開けて、舌をちろちろとさせて雷堂を誘う。
背後で、女性達の短いを悲鳴を聞いた気がしたが、
理由もわからず紅くなった頬に、それどころではなくなった。
「御馳走様でした・・・・・・」
扉をくぐって、雷堂は溜息を吐いた。
何だか酷く疲れた。
右へ曲がろうとして、腕をつかまれる。
「こっちだよ。方向音痴」
「あ、すみません」
慌てて歩き出すと、ぐいと肩を引き寄せられた。
「お前、本当に方向音痴なんだな」
顔があげられない。
「ま、明日もお使い頼むから。頑張れ」
「え・・・・・・」
「早く、慣れた方がいいだろ。町にも俺にも」
思わず顔をあげたが、益々密着されて、所長の顔は、よくわからなかった。
「もし・・・・・・」
耳元で囁かれるのが、何だか落ち着かない。
「さっきみたいに、お前のケェキをくれるなら、一緒にいってやってもいいぜ」
湿った音が聞こえる。
鳴海の苺のような舌を思い出して、雷堂は、また、道を間違えた。
2008.2.26
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