柔らかな唇は、すぐに離れていった。
 前よりも長く優しく重ねようとして、いつも物足りなさを感じる。
 名残惜しく近づければ、一度だけ応えてくれたが、とけあうことはなかった。

「行ってきます」
「うん。気をつけてね」

 ライドウの背が扉に隠れ、道ばたの足音が夕立にかき消されるまで、鳴海は動かなかった。
 ぼんやり窓を眺めて、鳴海は思い出す。




 ・・・・・・あの日も雨だった。








 
―――柔らかな手紙―――







「ただいま」
 急に降られてびしょ濡れになった鳴海は、探偵社に駆け込んだ。
 軽く身体を拭い、色の濃くなったダービーハットと上着を脱ぎ、漸くネクタイを緩める。
 コーヒーよりアルコールが欲しいね、と思った時、玄関で物音がした。
 お姫様の帰還かな?
 鳴海は、自室から顔を出す。
「お帰り、ライド」
 最後まで助手の名前を紡げず、鳴海は愕然とした。
 確かにそこにはライドウがいた。
 ただし、床に倒れ伏し、血の海に身を浸して……。
「ライドウ!」
 鳴海は俯せになったライドウの状態を、素早く確認する。
 血の海と思ったのは外套が床に広がっていたからで、傷自体は浅い。
 晒しで応急処置はしているようだが、倒れた際に傷口が開いたようで、朱が床を汚していた。その部分が、鳴海の視覚を異常に刺激し、血だらけだと錯覚したようだ。

 ―――無茶しやがって。
 
 鳴海は、止血をして医者を呼んだ。










 ―――……鳴海さん



 うつらうつらしていた鳴海は、はっと目を覚ました。
「ライドウ!?」
 少し青い唇が、綻ぶ。
「おはようございます」
 あまりに脳天気な内容に、鳴海は沈黙し、ライドウの頭にチョップを入れる。
 きょとんとする灰の眼を、鳴海は不機嫌に覗き込んだ。
 この少年は、傷による高熱と意識不明で生死の境を彷徨った。
 失うかもしれない恐怖と絶望の波に襲われながら、鳴海は殆ど寝ずに見守り続けた。
 少年の声を聴いた時は、あらゆる物に感謝し、涙が出そうになったのに。
 それなのに、黄泉から戻った第一声が「おはようございます」?
 何だ、その平和ぼけした言葉は。
 無事で何よりだし、言いがかりかもしれないが……。
 チョップの一つくらいお釣りがくるんじゃないか?
「痛いですよ鳴海さん」
「お前の傷は腹だから大丈夫」
「何だか父のようです」
 想い人にそう言われ、鳴海は椅子からずり落ちそうになった。
「ライドウちゃん……」
「心配しました?」
「もう一発いっとくか?」
「いいえ。十二分にわかりましたから」
 微笑むライドウに、この子は両親を、両親とのふれあいを知らないのだろうかと、ふと思う。

「……調子はどう?」
「一日寝れば大丈夫だと思います」
「そう……」
 医者の言葉を思い出して、鳴海は二重に納得する。
 掌で額の熱を確認し、
「今日は安静にしてろよ。飯も作ってやるから」
「……楽しみです」
「信じてないだろ。これでも俺は上手いぜ?」
「『あ~ん』してくださいますか?」
「俺、そんなこと言ったっけ」
「割と」
 ライドウが、少し身を折る。
「どうした?」
「……痛い、です」
「鎮痛剤、打とうか」
「葛葉の?」
「……あぁ」
 大人しく従うライドウに、鳴海は眉を潜める。
 本当なら、この少年は探偵社のベッドではなく、病院の管理された空間で寝ているべきなのだ。
 だが、葛葉という特殊な勢力下に置かれているライドウは、迂闊に病院に駆け込むことは許されていない。
 十四代目という稀有で危うい存在を守り、葛葉の情報を外に漏らさないためである。
 葛葉の息のかかった機関で、しかも極秘裏に治療を受けねばならないのだ。
 
 そう告げたゴウトに、最初、鳴海は食って掛かった。

「そんな悠長なことしてられるか! ゴウトはライドウを殺す気か!?」
「違うな。お前がライドウを殺すのだ」
「何だと」
 この程度でライドウは死なない、と前置きしてからゴウトは続ける。
「下手をすれば、十四代目は始末されるぞ」
「……」
「それどころか任務に失敗した贖いと、その身体を回収するために追っ手を差し向けられるかもな」
「葛葉、が?」
「葛葉も、だ」
 鳴海の呼んだ医者を追い返したゴウトは、自分が連れてきた一見紳士的な医者に指示を出す。
 どうやら一族に準ずる者らしい。
 黙々とライドウを治療する様子を見て、鳴海は、拳を震わせた。






 布団をかけ直してやり、鳴海は激情を抑えることができなくなりそうになった。
 なぜ、お前はそんなに穏やかな瞳をしている。なぜ、俺は苛立っている?
 額のタオルを濡らしてくる、と理由をつけて鳴海は自室を出た。
 扉を閉めたところで、洗面台にタオルを叩きつけた。

「糞っ」
 結局、俺はライドウの盾にはなれないのだ。
 帝都での身分、住まい、情報を提供しているとはいえ、所詮、葛葉一族の用意したものであり、鳴海が保障し、もしくは逆らえる程の効力はない。
 仮に暴挙に出たとしても、鳴海が消されるか、一緒に消されるか、無駄になるだけだ。
 
「畜生……」
 扉を背にずるずると座り込み、あの医者を思い出す。
 それならせめて、ライドウに触れるな、と云えばよかった。
 餓鬼臭いことを、しておけばよかった。

 
 あいつは俺のことを知らない。
 だが、俺もあいつのことを何も知らない。
 知っているつもりで、安寧していた。
 ……あいつは、最近笑ったことがあっただろうか?
 帰りの時刻を告げたことがあっただろうか……。

「莫迦」

「誰が莫迦なんですか」
 ふわりと後ろから包まれて、鳴海は呆然とした。
「……寝ておけって云わなかったか」
「云われましたね」
 鳴海は、かっとしたが、怒りを腹に留め、ライドウを仰ぎ見る。
「トイレなら俺に云えよ」
「自分で行けます」
「……じゃあ何だ」

「用があるのは、貴方の方ではないのですか」

 澄んだ瞳に捉えられ、鳴海は押し黙った。
 反論も、賛同の言葉も、出てこない。
 二人は、ただ雨音を聞く。


 雨は、また酷くなった。











「なぁライドウ」
 あれから数日。今度は鳴海が、後ろからライドウを抱きしめた。
 すっかり治ったライドウに、あの時の続きを囁く。
「俺は莫迦だから云っておく。俺はお前が好きだ」
 今日も任務で戻らないと、つれなく云った相手に、鳴海は告げる。
「お前は、いつかここを出て行くかもしれない。だけどな、それだけは覚えていてくれ」
 ちゃんと帰ってこいとは云わず。
 絶対に戻ってこいとは、云えず。

「気をつけて行ってこい」

「……鳴海さんも、気をつけて」



 その日から、ライドウは出かける際に、鳴海に接吻けをするようになった。
 鳴海も、同じように重ねた。












 何も残すことは許されず、奪い尽くすこともできない貴方へ。





 まるで接吻は、愛した証拠のように。
 恋文のような情を持って、捧げられる。



 嗚呼

 それは

 やわらかな遺書。









 強風に窓が閉まる。
 鳴海は、はっとして正気に戻った。

「ライドウ……」

 気配の消えた部屋に、どうにかその名残を見つけようとして、鳴海は唇をなぞった。
 指で、舌で、閉じた瞼の裏で、感じる。
 すぅっと、一筋頬を伝った。



 雨は、まだ止みそうにない。














 鳴ライ、でした。
 またまた突発的に書いてしまい、更新予定を狂わすワタクシ(土下座)
 唐突に

 「行ってらっしゃい」「行ってきます」→ちゅう
 
 の鳴ライ映像が浮かんできて、書いちゃいましたv(反省しろよ♪)

 
 今回は四つの時間を混ぜて書いていたので、読みづらかったのではないかと思います。
 統一した時間、もしくは二つの場面で構成した方が、流れは美しかったと思うのですが、結局このようなスタイルを取りました。
 しかも、まーた甘々じゃないしねぇ梶浦さん(吐血)うぅ、どうしても鳴ライは、切なくなってしまうっす。しかも今回の話は、救いようがないような(汗)
 梶浦は、本当に向いてないなぁラブラブ話……。
 鳴海さんのベッドでライドウちゃんは看病を受けていたっていうのと、それを主張したのが鳴海さんだってことは裏設定です。また、接吻けの具合(?)で互いの様子がわかるという設定も……ちょ、ちょっとラブくないですか?(自信なし)

 ライドウちゃんが「父」発言をしているのは、ゴウトを「母」ポジションに置いてみたかったからですv わーい家族♪(違!)でも、恋人なんですよね(昼ドラ?)

 それでも、ここまで目を通して頂いてありがとうございました!


                                         2006.7.14