息が上がって喉が干上がる。
唾を呑み込んで宥めて。それでも乾きは癒せない。
まだ。まだよ。
朝陽よ、まだ昇らないで。
夜を光で照らすのは、もう少し待って。
自棄に人の多い銀座を走り抜けて、タヱは発車直前の電車に飛び乗った。
「よし、下書き出来た!」
ん~と伸びをして、仕入れたばかりのネタをうきうきと見直した。
とある要人の裏情報。
張り込んでいた甲斐があって、こうして文字になった。
空振りになることも多い情報戦で、だ。
上司はタヱが頑張れば頑張るほど、やめておけと言うし、危険な綱渡りをするといい顔をしない。
女なのに。まだ若いのに、そんなことをしなくても。
その言葉に縋りたい時も確かにある。
でも、危険を承知でこの仕事を選んだ。
今は束縛されていても、もっと取材をして、署名記事を増やして、女性が公的な場で自由に発言できる環境を作らないと。
先ずは、今日仕入れた決定的証拠を世に出す。
後は見直しだけよと、ふと窓の外を見た。
あ。
もしかして。
「バレンタインデーは昨日だったの?」
呟いた声が、室内に大きく響いて、びっくりした。
昨夜までけばけばしい装飾で居並ぶ店を飾っていたチョコレートの文字は、既になく。
ひしめいていた人の波も、嘘のように引いている。
時計の音で我に返ると、タヱは悲鳴を上げた。
「いけない! 早く書き上げないと!」
タイプライターに視線を戻した。
独特の金属音と文字を刻む度に生まれる反発力。
だが、先ほどまでの集中力は、なくなっていた。
気づいてしまった。
無意識に気づかないふりをしていた出来事に、気づいてしまった。
―――今は、それどろこじゃないでしょ、タヱ。
必死に文字を追い、自分に言い聞かせる。
微かに震える指は、帰社した時に、勢いよく開けすぎた扉の衝撃のせい。
動揺したからではない・・・・・・筈。
二月十四日は来年も来るけれど、この情報は、このチャンスは二度と巡ってこない。
天秤にかければ、どちらが大事か、火を見るよりも明らかでしょう!?
私、は、記者なんだから・・・・・・!
だが、指の痺れは、いつしかじわりじわりと全身に満ちて思考に到達した。
新聞社の机に齧り付いている自分は、そのままに、意識が遠のくような錯覚を覚える。
何だか頭がぼんやりする。
潮が引くように、目前の景色は色を失っていき、さっきまでの決意も虚ろになっていく。
窓に当たる幸せそうな人々の声が、空虚な自分の中で木霊する。
急速に、私の中は空っぽになった。
空っぽなので、音がよく響く。
頭を振って、幻聴を振り払っても、まだ何かが聞こえる。
それは、きっと寂しさで。
寂しさが反響して。反響し過ぎて。
耳が、痛い。
無音で動いていた指が、止まった。
タイプライターから離れて、握った先に―――。
約束の一つもしなかったのは、私だ。
近しい人に会う間もなく、この数日走り回っていたのは、私だ。
外の世界は、届きそうな位置に温かさがある。
誰かの温もりがある。
けれど、私は今すぐそこに飛び込むことはできないのだ。
もし誰かを誘っていたら。
もし誰かに誘われていたら・・・・・・。
込み上げてきた嗚咽を、ぐっと止めた。
厭。恨み言だけは、漏らしたくない。
どちらにしろ仕事を放り出すことは出来なかったのだから。
ぽたり、ぽたり、と涙が落ちた。
と、
「あ・・・・・・」
熱い瞼に、冷たい掌が覆い被さった。
「なる・・・・・・?」
いいえ、これは。
紡ぎかけたその唇に、人差し指が添えられて。
はっと眼が覚めた。
原稿! と思って、時計を見れば、最後に確認した時から、そう時間は経っていなかった。
勿論、原稿だって自動的に書き上がったりなんてしていない。
けれど、さっきまで響いていた空っぽの音は、何故か消えていて。
タヱは、すんなりと作業に戻った。
何だろう。さっき、何かあったような気がしたのだが。
自棄にすっきりした頭をひねったが、思い当たる節はなかった。
ただ、筑土町にある探偵社の面子が脳裏をかすめて。
温かい気持ちになって、笑みが浮かんだ。
この記事を出したら、チョコレートを買いに行こう。
十四日は過ぎてしまったけれど。
どうせ義理チョコなんだし・・・・・・いいわよね。
お返しを楽しみにしてるわ。
ただし、十四日に届けてくれないと厭よ。
貴方達は、人を探すお仕事をしているんだから。
何処にいるか、自分でもわからない私を探し出して頂戴。
ね? 探偵さん達。
2007.2.15
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