ばさっと音を立てて、書類は机に落ちた。
 探偵社の机に顔を俯せていた鳴海の耳元にも、其の音は届いたようだった。
「・・・・・・・・・・・・あ?」
「起きろ」
 雷堂は、駄目押しの珈琲を置いた。
「依頼が来た。ここ数日、我等が留守にしていた間の依頼だ。危篤にも、『鳴海殿』に是非お願いしたいとのことだ」
「・・・・・・結婚しようぜ雷堂」
「は?」
 訳のわからない内容に、流石の雷堂も無視できなかった。
 だが、鳴海は一人で納得したようだった。
「反論なしね。じゃあ今日からお前は、鳴海雷堂。『鳴海殿』。じゃ、調査に行け」
 俺は寝る、と上げかけた顔を再度伏せて、新郎鳴海は寝息を立て始めたが。
「熱っ!」
「温くしておいたから平気だろ」
 顔色一つ変えずに、いや、瞳に殺気を込めて鳴海の頭に珈琲を注いだ雷堂は、
「さっさと湯浴みをして着替えろ。酒を抜いてこい」
 濡れた髪を引っ掴んで、視線を合わせる。
 怒鳴ろうとした鳴海は、酒臭い自分の息に眉を顰めて。
「お前が洗ってくれたら風呂に入る」
 雷堂は拳で応えた。






「お前、本当に容赦ねぇよな。俺の格好いい顔が歪んだらどうする」
「ふん。鍛え方が足りんのだ。定期的に身体を動かさんと、萎えてしまうぞ」
「一部分だけは萎えない自信があるぜ」
 背を向けて調理器具を洗っていた雷堂は、何とか無視をした。
 此処で反応をするから、毎回毎回なし崩しに鳴海のペースに嵌るのだ。
「ご馳走様」
「・・・・・・うむ」
 平静を装いながらも雷堂は心底驚いていた。
 普段の鳴海は、雷堂に何のねぎらいもなく寝室に引っ込むか、文句しか云わない。
 あれが不味かったとか、嫌いな物は入れるなとか。
 だから負けず嫌いの血が騒ぎ、雷堂の料理の腕は上手くなっていき、残される確率が少なくなってきて、達成感も感じていた。
 今朝の鳴海は出された料理を完食し、礼まで云う始末。
 まぁ嬉しくないこともないが、むず痒い。
 ・・・・・・此の男も、とうとう真っ当な道を歩き始めたか?

 雷堂は食器を片付けて、支度を調えた。
「我は先に行く。貴様も日が高い内に、外に・・・・・・」
「はいは~い」
 へらへらと笑う鳴海に、雷堂は絶句した。
「貴様! 朝から酒か!」
「アルコォルは俺の血デス」
「調査依頼が来ていると云っただろう!?」
 酒瓶を鳴海の手からむしり取って、襟首を揺さぶった。
 石鹸の香りに強い酒臭が混じり、雷堂の怒りを増す。
「たまには爽やかな日を勝ち得ろ!」
「つまんなーい」
「仕事を選り好みできる立場か!?」
「オカルト専門だもん」
「なよなよした声を出すな!」
「ちっ。可愛く云ってみたのに」
「たまには真面目に生きろ。世界を穢すな」

 その言葉に、鳴海の眼が光った。
 雷堂には昏く光って見えた。
「・・・・・・世界が綺麗だと?」
 ぞっとするような声が其の唇から漏れた。
「じゃあ何でお前は、帝都守護なんて立場にいるんだよ」
「穢すものがいるからだ」
「お前はお綺麗な世界を創りたいってことか」
「我は創る立場ではない。護る任についている」
「でも平和な世界を望んでるんだよな。争いとか悪とか無い世界をよぉ」
 鳴海は、くっと喉を鳴らし、仮初めの笑みを浮かべた。
「俺は、去勢された世界に興味はないね」
「・・・・・・」
「其れが天国って奴と同等なら尚更いらねぇよ」
 擦れた声に、雷堂は沈黙した。そうした方がいいような気がしたのだ。
「完全なる平和な世界があったら、デビルサマナーだって用無しだぜ? 葛葉雷堂の名も当代で終わり。もしかすると迫害されるかもな。かつて帝都の反逆者が『鬼』と云われたように」
 本物の「鬼」がいるかは知らねぇけどな、とぽつりと漏らす。
「適当が一番なんだよ。そんなに切羽詰まるんじゃねぇよ。」
 固まった雷堂の手から酒瓶を取り返し、喉に流し込む。
「悪い要素を呑み込んで、たまに排泄するのが世の中って奴さ。自然もそうじゃねぇのか? 世界はマゾヒストで、人間もマゾヒスト。其れが純粋なマゾヒストとマゾヒストなら話にならねぇけど」
 なぁお前もマゾ野郎か、と鳴海は危うい理論で笑いかける。
「色んな奴がいるから破綻した性質も、何とか上手くやっているように思えるんだよ。程々に立ち回り、程々に破壊する。静と動の間で生きたらいいんだよ。だからアルコォル中毒で世界平和なんて唱える奴もいるんだ」
「貴様もそうなのか」
「莫迦云え」
「貴様の言い分も一理あるかもしれぬ。だからといって、貴様の堕落を肯定し続けることは我には出来ぬ」
「・・・・・・俺は、ただ酒を飲んで黄金になった体液を流したいだけさ。嗚呼、そういうプレイは、まだしてなかったっけな」
 鳴海が巫山戯た口調に戻ったのは、語り過ぎた故のごまかしなのだろうか。
「完璧な世界なんて気持ち悪い。天国なんて薄気味悪ぃ」
 俺は、絶対そんなところにいけねぇし。とろんとした眼が訴えた。
 封を開けたばかりの液体は、底をつこうとしている。
「なぁ。お前も程々にしろよ。生き急ぐなよ」
「何故」
「俺より先に死ぬな」
 落ちかけた瞼の奥で、最後の正気が顔を出す。
「待つのは、疲れた・・・・・・」
 そう云って、鳴海は眠った。



 雷堂は、窓を開けて深呼吸をした。
 そうしないと、アルコォルとそれ以外の何かに悪酔いしそうだったからだ。
 換気を終えて、雷堂は鳴海に視線を向けた。

 起こそうと思えば、起こせる。
 水の中に顔をつっこめばいい。仲魔に治療をさせればいい。
 夢の中に逃げ込む男に、優しくする義務はない。

 雷堂は、生き急いでいるつもりはない。
 切羽詰まっているように見えたとしても、これが我の遣り方なのだ。
 惰眠を貪る相手と一緒に、遊び惚ける必要もない。
 ない、と思うが。

 雷堂は、外套を脱いだ。
 業斗は、既に出かけたようだった。

「こういうのは、帝都守護に入るのだろうか」

 苦しそうに伸ばされた手を、そっと握った。
 






                             
      2007.2.27