「金庫にしまえる秘密など、秘密にはならないと思わないかね?」
 ぺらりと機密書類を捲った鳴海は、声の主に顔をしかめた。
「それ、新手の嫌み?」
「独り言だ。答えたければ、応えてくれてもいい」
 薄く笑む唇は、爬虫類のような不気味さがある。
 利害の一致から同じ空間にいるものの、鳴海は、定吉という男が苦手だった。
 ただし真っ向からやり合うには。
「資料は、これだけ?」
「嗚呼。部下の報告だ」
「定吉ちゃんの見解は?」
「・・・・・・ちゃん?」
「サド吉ちゃんの方がいい? 拷問好きそうだし」
「・・・・・・軍人は、嫌いかね?」
「お前の方が年下だろ?」
「君は一般人だろう」
「うーん。じゃあ一応、川野将校殿って呼びますよ」

 定吉は、杯を呷って歪んだ唇を隠した。
 その身分は、秘密事項だ。
 人払いをしているとはいえ、料亭で易々と名を呼ぶなどと・・・・・・。
 三分咲きの桜が描かれた襖を睨む。
 何か此の男を屈服させる手はないものか。
 此の男が自分に敬語を使う心地よさに、喜ぶ自分もいるから、それを利用するのもいいかもしれない。
 不快感と獲物に逢えた恍惚感を皮膚の下に煮えたぎらせながら、歯の裏をちろりと舐めた。
「私の見解は、部下とは少し違う。資料には、国内の売人が粗悪品をさばいているだけだと書いているが、其の麻薬は、別ルートで入手したものを混ぜて売っている可能性がある」
「麻薬にもランクがありますからね。上物を粗悪品に混ぜる意図は何でしょうか?」
「・・・・・・知りたいかね?」
「知っているのでしょう」
 かこん、と庭の鹿威しが鳴る。
「・・・・・・前払いの品では、足りませんか」
「君は物わかりがいい。頭のいい人間と話すのは、楽しい。ついつい口を滑らせそうになる」
「・・・・・・如何ほどに」
「君も元工作員だろう? 考えてみてはどうかね」
「将校殿が望むことなど、皆目検討が尽きません」
「はぐらかしているつもりかね? 『幽霊』殿?」
「此の部屋は、俺とお前しかいないけど」
「私は、幽霊を視られない。・・・・・・口調が戻ったぞ。鳴海氏」
「ははっ。将校殿の口からそのようなお言葉が出るとは思いませんでしたから」
 鳴海は、煙草に火をつけた。
 定吉は、男に隙が出ないか観察する。
 手元は震えていないか。焦燥が滲み出ないか。
 隠し事を指摘されると、誰もが非日常行動に出る。
 本人も自覚していない癖が、出てしまう。
 一瞬、其の歪みを捕らえた気がしたのだが・・・・・・断言はできない。
 今の所、限りなく黒に近い灰色だ。

「そもそも君は、何故、この件について調べているのだね?」
「約束をお忘れですか。聞かない約束でしょう」
「交換条件にしてもいいが」
「・・・・・・本音は?」
「君が犯人の一味」
 重い沈黙。
 と、肩をふるわせた鳴海が大笑した。
「ありえない! 自分の犯罪を他人に頼んで曝いて貰う!? 少なくとも将校殿には、頼みませんぜ」
「隠れ蓑かもしれない。我々の察知できていないルートからの輸入。新しい組織、海外からの介入。・・・・・・『幽霊』の経歴なら可能だからね」
「幽霊とは何者ですか」
「君の事ではないのかね」
「俺、生きてますよ!」
「いい加減に笑うのを止めたまえ」
「だって、おかしっ・・・・・・! 将校殿も冗談が云えるんですね」
 ひぃひぃと涙さえ浮かべながら笑い続ける鳴海に、定吉は苛々した。
 乱される。
 情報将校の自分が、此の男に易々と矛先を逸らされる。
 主導権を握らなければ、負ける。
 知らず怒らせていた肩を下げ、ゆっくりと息を吐いた。
「教える条件は、これだ」
 定吉は、封筒を渡した。
「身辺調査?」
「そうだ。『幽霊』についてだ。もう笑うな」
「―――幽霊ねぇ。お墓にでも行ったらどうですか?」
「不特定多数の不確定の存在を云っているのではない。かつて私と同じ、情報将校だった男だ」
「男・・・・・・」
 鳴海氏なら、ここで「厭な顔」をするだろう。
「女性ならよかったんですけどね」
 ほらな。
「選り好みは出来まいよ」
「ごもっとも」
 男の反応に違和感は、なかった。
「引き受けてくれるかね?」
「将校さんの方が、情報を持っているんじゃないですか? 探偵よりも、調査できる範囲が広いでしょう」
「君にそれだけの価値がある、と云ったら?」
「将校殿は、見る目がある」
 黙読した資料を封筒に入れ直し、鳴海は唇を開いた。
「お断りします」
「何故?」
「民間人の手にあまる」
 確かに、危なすぎる橋だ。
 軍事機密に手を出すなど、自殺行為にも等しい。
 だが、
「本人以上に秘密を知っている者はいないだろう?」
「さて、どうですかね。無くて七癖と云いますから」
「それは、人に見せ、見せている状況下で云えることだ」

 身を乗り出し、鳴海を見下ろす。
 ぎしりと音を立てたのは、掌の下の机だけだったか。
「私はね。書類にも人の記憶にも残っていない情報が欲しいのだよ。表現された情報は、いずれ白日の下にさらされる。それは最早『秘密』ではない。本当に隠したいことならば、誰にも見せないように秘めておくか」
「消してしまえばいい」
「その通りだ」
 顎をとらえた。
 獲物は爪にかかった。
「引き受けてくれるかね」
 選択肢を残したかのような問いかけ。
 勝利を確信した強者の遊戯。
 ふっと苦く笑んだ鳴海に、接吻けたくなった。
 軽く口を開くと、相手も応えてきた。
 ―――悪くない。
 下着の下を探り当てると、鳴海が舌をからませてきた。
 ―――悪くない。
 二人を隔てていた机を横にずらし、行為を進める。
 畳に押し倒すと、耳をさわさわと撫でられた。
 と、急な激痛に目眩がした。
 やられた、と思う内に意識が遠のいていく。
 最後に耳に残ったのは、自分の名前を楽しそうに呼ぶ声・・・・・・。









「青いなぁ定吉ちゃん」
 少し乱れた衣服を整え、鳴海は書類を持った。
 床に伸びている将校殿は、次に目覚めた時、数分間の出来事を忘れているだろう。
 記憶を混乱させる衝撃。
 情報を消す為の措置。
「ちょっと荒かったかなぁ」
 ま、油断した方が負けだし。
 襖に手をかけて、ふと鳴海は振り返った。
 ―――白い装束。

「死んだ相手を起こすんじゃないよ」
 
 幽霊は、此の世にいない者。
 亡き存在を探そうとするのが、そもそも間違いなのだ。

 鳴海は表情を隠すと、夜桜の描かれた襖を開ける。
 そして、漏れ出でた闇の中に消えた。




 






                             
      2007.3.30